他の人のことを心から積極的に思いやること。傷つけたり、苦しめたりすることがない。
エペソ4:32
互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。
コロサイ3:12
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。
1ペテロ2:3
あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。
親切であることは、時に非常に難しい選択をしなければならないものです。イエス様のたとえ話の中で、よきサマリア人が道端に倒れている何も持っていない傷ついている者を助けるストーリーがありました。先に通りかかったレビ人と祭司はそこを通り過ぎて行きましたが、サマリア人が通った時、その倒れている人に親切にしてあげたのです。
なぜレビ人と祭司は見て見ぬふりをして通り過ぎていったのか、律法を教えるような人たちが親切にできなかったのか少し考えてみましょう。彼らは、律法を守ることを生活の最重要事項としておいています。ですが、律法に書かれていることを、ただの文字として読んでしまうなら、外国人や女の人と気軽に関わることは許されず、安息日に人を助けることもできず、もし死んでいたとするなら、死んだ者の血を触ることも拒むでしょう。
これは私たちには馴染みのない話のように思えるかもしれませんが、私たちにも守りたい者のために誰かに親切にすることを諦めることがないでしょうか?時間に遅れるので他の人が助けてくれることを期待したり、今は旅行中なのでわずらわしいことに巻き込まれたくないので地元の人がやってください…など、その時の事情をいくらでも言い訳にしてしまうのが人間です。
突然のことでなくても、もし神様が私たちを愛して優しい心で赦してくださっているように、私たちの隣人をゆるして優しい心で親切にするなら、神様は私たちにもっと親切な心を与えてくださり、忍耐を教えてくださるでしょう。
善意 アガトースネー
正しいこと、他の人の益になることを行おうとする犠牲である。真理には熱心になり悪を憎むこともある。悪や不正に挑戦したりそれを正したりする行動
マタイ21:12−13
それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」
善意はいつでも相手にその真意が伝わらないこともあるでしょう。なぜなら、イエス様がとった行動は、怒りをあらわにして強く正しいことをあらわしたからです。時に悪を正すために叱ったり、大きな行動をとることも必要です。嫌われることや指を刺されること、陰口を言われることを恐れていると、悪意を持った人たちや神様の導きと真反対の行動をとる人たちの思い通りになってしまいます。人と対立するのではなく、悪意と対立し、私たちの周りを清くしていかなければ、その悪意は増え広がり、その土地やその人に根付いてしまうのです。
一人でも多くの情熱的で犠牲的な善意ある人が増えるなら、神様の用意しておられる恵みを一つ残らず得ることができるようになります。その恵みは、国全体に広がり、神様の栄光がますます豊かに現れるでしょう。私たちも犠牲を払って、正しいことのために行動しましょう。