状況によらず、イエス様に従う人々にしかない、愛、恵み、祝福、約束、神の臨在によって内側から溢れ出る喜び
詩篇119;16
私は あなたのおきてを喜びとし
あなたの御言葉を忘れません。
2コリ6;10、
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。
12:9、
しかし主は、「私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
1ペテロ1:8
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。
ピリピ1:4
あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びを持って祈り、
喜びは、感情的なものであり、喜ぶのか喜ばないのかは、湧き上がるものであり、自分の意識の外にあるものだと人は考えます。聖書は、喜びは感情的なものであると同時に、それぞれが選択すべきものだと教えているのです。「信仰による喜び」や「主にある喜び」を選び取ることを命じているのです。つまり、自然に喜べない状況の中で、肉眼では確認できないところに喜ぶべき主の栄光があることを喜びなさい、と言われるのです。
それを聞くと、何があってもにこやかに笑っていて、無責任に「ハレルヤ〜、感謝しまーす✨」と言っているのが神様の願うクリスチャン像なのか…、と思う方もいらっしゃるかもしれませんね。そうではありません。悲しい時は泣いても良いのです。笑顔でいられないまま教会に来ても良いのです。むしろ大歓迎です。静かな場所で、自分の落ち込んだ気持ちを受け止めつつ、神様に心を打ち明けることも大事です。自然に私たちの心が感じていることを認めつつ、神様が今も働いておられ、ともにいてくださり、私たちを神様の栄光へと導いてくださる約束があるということを、疑うことなく確信して喜ぶことを選び取ることを命じておられるのです。
とは言っても、どこからどう見ても悲しいとしか思えない状況も人生にはあります。今喜ぶなんて、頭がおかしい…。喜びのカケラも見つからない…。そんな時はどうすれば良いのでしょう。
そんな時に思い出す聖書箇所はこれです。
ヘブル4:15〜16
私たちの大祭司は、私の弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点に置いて、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
今喜べることがあるとするなら、イエス様は私の苦しみに共感してくださり、私には恵みによって御座という帰る場所があること、主は涙しながらボロボロな私を受け止めてくださり、愛して癒してくださるということです。
喜べない時こそ、大胆にイエス様のもとに行き、全てを受け止めてくださった方の癒しをいただきましょう。そうするならば、涙とともに喜びが溢れてくるはずです。